小論2004-05

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危機管理小論  2004-2005年

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DSC_6264.jpgわが上司、後藤田正晴さんの訃報に接し(2005年9月22日)


9月19日、後藤田正晴さんがお亡くなりになりました。

私にとっては長い間、特別権力関係の部下としてお仕えしてきた大切な上司でした。

昭和40年代半ば(警察戦国時代)の安保闘争と数々の騒擾事件、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、大島三原山噴火全島避難など、幾多の事件・事故を後藤田さんの下で処理してきましたが、「国民の生命・身体・財産の保護こそ国の最大の任務」という「護民官魂」を教わりました。引退してからもその姿勢は一貫して変わらず、良識ある元老として「生涯現役の官房長官であり副総理」であったと思います。
折しも総選挙で自民党が大勝し、昨日国会が開会しましたが、この大事な時に天下のご意見番としていちばん必要な方だったと思います。

上司としては大変厳しく、褒められたことは一度もありませんでしたが、あとからその内面にある愛情を強く感じたものでした。
17歳で父親を亡くした私にとっては、親父のような存在でもあったと思います。

昨年8月、私が腰の手術のためしばらく仕事を休んでいた際には、大変心配してくださいました。
入院中には、手術の前日に私がいないと知りながらも、居ても立ってもいられないと事務所にお見舞いにきてくださり、慌てた事務所のスタッフが病院にいる私に急遽電話をつないでお見舞いのお言葉を受ける、などということもありました。
また絶対に誰にも知らせていなかったはずの病院を探し当てて、わざわざご夫妻でお見舞いに来てくださいました。
私の事務所が入っているビルの階段に手すりがないのを大変気にして、「危ないからすぐに大家さんに話して手すりをつけてもらえ」という珍命令がでたり、私が病院のベッド脇においてあった栄養食品を見るや、数日後にはその栄養食品と体にいいと言われるミネラルウォーターをケースで山ほどお届けくださったり・・・。

「君はまだ73歳だろう。ワシは90だ。その若さで引退などしてはいかん!」と叱咤激励されたその言葉が、強く心に残っています。

先週、後藤田さんがご入院されていることを知り、今週火曜日(20日)にお見舞いに行く予定をしていたのですが・・・・もっと早く行けばよかったと、本当に悔やまれます。

心からご冥福をお祈りいたしますとともに、後藤田チルドレンの一人として、ご遺志を継いで天下国家のために尽くしたいと思います。

追記:訃報に接し、多くの方から私の元にメールが寄せられました。「残念で仕方がない」「深い悲しみを覚える」「日本の将来がますます不安になる」「お疲れ様でした」「戦後の政治史に燦然と輝く政治家がいなくなったことに憂いを感じる」「まだまだお元気でいてくださるとばかり思っていた」「心からご冥福をお祈りします」などのメッセージのほか、追悼の歌をお詠みくださった方もいらっしゃいました。
皆様の心からのお悔やみの言葉に大変感激するとともに、改めて後藤田さんの偉大さを感じています。

さらに追記(9/26):皆様からのメールで、私も大変励まされました。ありがとうございました。
私にとっては大きな打撃ですが、これからまた頑張って参りたいと思います。


DSC_6090.jpg 後藤田正晴氏の訃報に接し、各紙で発表したコメント(2005年9月22日)


*「自民党が大勝し、傲慢になるおそれのある一番大切な時に、天下のご意見番を失ったことは痛恨の極みだ。「護民間魂」に徹した真の政治家だった。バランス感覚に優れた良識ある元老としてもっと長生きしていただきたかった。」(朝日新聞9/21夕刊)

*(あさま山荘事件の現場指揮に際し)「あの時は、人質の救出や現場の警察官の安全などあらゆる問題に配慮し、非常に冷静な判断をされた。事件から四半世紀が過ぎ、最後の最後まで治安問題に関心があり、指示した師であった。自民党が圧勝した今、ご意見番として長生きしてほしかった。」(読売新聞9/21夕刊)

*「『情報』の重要さを一番よく知っていた政治家だった。自民党が圧勝し、傲慢になる恐れがあるときに、天下のご意見番を失ったことは痛恨の極み。」(毎日新聞9/21夕刊)

*「日本の大事な時にバランス感覚に優れた良識ある元老としてもっと長生きしていただきたかった。」(日本経済新聞9/21夕刊)

*「あさま山荘事件以来の『上司』。自民党が大勝し、高慢になる恐れのあるときに天下のご意見番を失ったことは痛恨の極みだ。情報の重要さを知り護民官魂に徹した真の政治家だった。われら、後藤田チルドレンはご遺志を継いで天下国家のために尽くしたい。(北朝鮮をめぐる)六カ国協議についてのご指導を受けたかったが、残念だ。」

*「自民党が傲慢になる恐れのある大事な時に、天下の御意見番を失ったのは痛恨の極み。浅間山荘事件以来、半世紀の『上司』で、心から哀悼の意を表す。情報の重要さを知る真の政治家だった。ご遺志を継いで天下国家のために尽くしたい。」(夕刊フジ9/22号)

*「自民党が大勝し、傲慢になる恐れのある一番大事なときに、天下のご意見番を失ったことは痛恨の極み。バランス感覚に優れた良識ある元老として、もっと長生きしてほしかった。われら後藤田チルドレンは、遺志を継いで天下国家に尽くしたい」(産経新聞9/22朝刊)

*「自民党が傲慢になる恐れのある一番大事なときに、天下のご意見番を失ったことは、痛恨の極み。」 「『護民官魂』に徹した真の政治家。我ら後藤田チルドレンは、遺志を継いで天下国家に尽くしたい」(9/22日刊スポーツ・・・「後藤田五訓」とともに掲載)

DSC_6190.jpg 毅然とした対中外交を(2005年6月6日)

昨年中国で行われたサッカーアジア杯での暴動や原潜の領海侵犯、4月の反日暴動、靖国参拝中止要求や海底ガス油田交渉での一方的な要求など、中国は日本に対し国際マナーに反する非礼外交を続けています。

歴史を振り返っても、今の中国の言動は秦の始皇帝や元のフビライ・カーンを想像させる「東夷南蛮西戎北狄」の中華思想に満ちており、まるで日本は属国扱いです。

終戦時、蒋介石国民党政府は、日本政府、企業、個人の分を含めてすべての資産を接収する代わりに、賠償請求権を放棄しました。1972年の日中共同声明でも日本に対する賠償請求放棄を宣言しています。

中国に残してきた在外資産総額は現在の金額で20兆円ともいわれていますし、これまでの対中ODAは3兆3000億円にのぼります。これが今日の中国の発展や9.5%の経済成長を支えたことは、紛れもない事実です。

日中戦争の謝罪も、私が数える限りで18回、つい先日のバンドン会議での小泉総理の謝罪は記憶にも新しく、これ以上の謝罪を求めることは、封建的な「罪九族に及ぶ」思想以外のなにものでもありません。孫子の代まで、謝罪を続け、ODAの形で賠償を支払うことには、断固「NO」です。

改めるべきは中国の外交姿勢であり、日本は毅然と構えて言うべきことは言わなくてはなりません。

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DSC_6274.jpg 2004年の危機管理総括(2004年12月28日)


2004年も、多くの事件、事故、災害等が起こり、危機管理の重要性を改めて感じる1年でした。

とくに本年大きな課題となったのが、「コンプライアンス」の問題です。政(年金未納・未加入)、官(社会保険庁不祥事)、財(UFJ検査妨害)、民(三菱ふそうリコール隠し、西武虚偽記載、ダイエー経営危機)、マスコミ(NHK制作費流用)など、あらゆる分野で組織の命運を左右する事態がおこりました。不平不満、苦情、内部告発をどう処理するかが、危機管理の大きな命題のひとつとなりました。

また、新潟県中越地震の発生はじめ、多くの台風が上陸したり、各地に集中豪雨がおこりました。
自然災害に対する危機管理は、阪神大震災以降大きく改善され、各省庁の初動の早さ、自衛隊や緊急国家消防隊、ハイパーレスキュー隊の大活躍が光りました。今後はスマトラ沖大地震・大津波を教訓に、「津波対策」にも力を注ぐ必要があるでしょう。

自衛隊はイラク派遣でも国際貢献の役割を立派に果たし、世界で高く評価されました。反面、国際社会での威信を失墜し、国民の怒りを買ったのは、アジア外交における政府、外務省の姿勢です。
中国との関係では尖閣問題、海底資源調査問題、原潜領海侵犯問題などが解決することなく、逆にサッカーアジアカップでは国旗・国家を侮辱され、靖国参拝中止を求められる年となりました。2003年に1080億も支出した対中ODAの削減をカードに、毅然とした交渉をすべきです。

また、北朝鮮外交では「ニセ遺骨」を渡されるなど、世界の外交史上例のない不誠実な態度をみせられました。本来は即刻経済制裁をすべきですが、「経済制裁を宣戦布告と見なす」と発言し、核を持ち、ミサイルを持つ今の北朝鮮に対峙するには、日本もミサイル防衛力を持つことが必須です。
防衛計画の大綱が見直されましたが、拉致問題解決のためにも必要なことなのです。

年末にかけて遅い寒波が到来、私も風邪をひき、肺炎で10日間ほど入院しました。
みなさまもお体にはくれぐれも気をつけて、元気によいお年をお迎えください。

DSC_6212.jpg 新潟県中越地震の国の対応について(2004年10月25日)

10月23日、新潟県中越地震が発生しました。
まず被災者の皆様には、心から御見舞い申し上げます。

あの阪神大震災から間もなく10年がたとうとしていますが、今回の初動では、その教訓はずいぶんと生きてきているように感じます。
官邸、警察、消防、防衛庁はじめ、各省庁の対策本部は、地震発生の4分後に設置されました。
阪神大震災の際に、総理に第一報が届いたのが1時間50分後、4時間後の閣議で初めて議題になったことを考えると、国の「危機管理」はすすんだといえると思います。

消防や自衛隊のヘリを使った大規模な救助活動が行われ、とりわけ自衛隊への早期の出動要請があったことは、良かったと思います。

しかし、私たちはこのような地震が、もし首都圏で起こった時のことも同時に考えなくてはなりません。
指揮権の継承順位規定も含めた、緊急事態対処法の早期の制定、国民の避難計画を定めた国民保護法の内容の具体化は、テロや周辺有事などの非常事態同様、災害時のためにも喫緊の課題です。

国家が行うべき4つの「防」があります。「防衛」「防犯」「防疫」「防災」がそれです。このうち、「防災」だけは予測が非常に難しく、予防策がないため、起きてしまった時の被害局限が最大使命となります。しかし現在、自衛隊は災害時の基幹部隊ではなく、原則として「要請」に応じて出動することになっています。

今回の震災でも、自衛隊からは消防を上回る1200人が派遣され、そのための即応部隊として4万人が後方で控えています。
彼らをもっと積極的に活用して、被害を少なくし、被災者を救い出し、支援出来るよう、より体制を整えていく必要があるでしょう。

DSC_4447.jpg 2004年9月10日

アテネオリンピックでは、日本選手が大活躍し、国民は感動と歓喜の寝不足の日々を過ごしているうちに幕を閉じました。

しかし「平和と友好の祭典」であるオリンピックを無事行うために、警備当局はテロへの厳重警戒体制をとりました。
7万人の軍や警察、パトリオット3型を含む28基の地対空ミサイル、300台の監視カメラと200機以上の軍用機とヘリ、50隻以上の艦艇が、オリンピックの華々しい舞台の陰で控えていました。
「何も起きなかった」のではなく、「何も起きないようにした」のです。

一方、9.11から3年を迎えた世界では、悪意と憎悪をむき出しにした現実が繰り広げられています。
8月のイラクでの米国人死者は1000人を超え、ロシアの北オセチア共和国では、300人以上の子どもが犠牲になる、学校占拠事件が起き、インドネシアでも豪大使館を狙ったテロが発生ました。

テロリストに「人命尊重」や「人権思想」は通用しません。
「性善説」や「話し合いで・・・」ということが通用しない、暗黒の現実が存在していることを、われわれは直視しなくてはなりません。

もし、万が一日本でこのようなことが起きてしまったら、ということを考えるのが「危機管理」の発想です。

具体的には、(1)国民保護法の具体策を定めること、(2)緊急事態対処法を制定すること、(3)領土・領空・領海侵犯に対する自衛隊の武器使用基準を見直すこと、が急がれます。

DSC_4398.jpg 拉致問題に関する日朝交渉(2004年5月18日) 


拉致問題に関する日朝交渉が行われ、「進展があった」といいながら「中身は言えない」との発表に、疑問を抱きます。
田中審議官と藪中局長は、いったい11時間もどのような議論をしたのでしょうか。

北朝鮮は被害者家族を帰すと言ったのか、日本は8人の被害者家族帰国のほかに、すべての拉致問題が解決しなければ外為法や特定船舶入港禁止法案(今国会通過予定)を発動するという「圧力」をきちんと伝えてきたのか、国民にはさっぱりわかりません。

また、拉致問題はあくまで6者協議の場で「核」「ミサイル」問題と一括で解決することになっていたはずです。
曽我ひとみさんの夫ジェンキンズ氏については、「逃亡兵」という立場上本来は日本に来るのが難しいという実情があります。

軍法会議、その後の米大統領恩赦など、日朝2国間ではすまない国際的問題を抱えており、慎重な手続きが必要です。
いまだ安否が不明な横田めぐみさん以下10名の拉致被害者についても、解決しなくてはならないなど、問題は山積です。

このまま、拉致問題が6者協議からはずされると、解決も遠のいてしまう危険があります。
さらに、5人の拉致被害者家族帰国のために総理が再び訪朝するという話もありますが、すべてが解決されない以上、絶対に行くべきではありません。
それより、なぜ「外務大臣出迎え」の声が出ないのでしょうか。

協議の場で何を話し、今何をやっているのか、国民に向かってきちんと説明する責任が、国にはあると思います。

DSC_6106.jpg イラクで人質となっていた5人の解放(2004年4月23日) 


イラクで人質になっていた5人が、相次いで無事解放されました。まずは、何より本当によかったと思います。

今回、小泉首相は福田官房長官を通じ、「人質の無事救出に全力をあげる」という姿勢と、「自衛隊は撤退しない」という姿勢を、早い段階で同時に表明しました。

「国民の生命・身体・財産の保護」は、国家の重要な責務であります。今回「自己責任」という言葉がよく聞かれますが、NGOやフリーのジャーナリストの方やその支援者、家族の方たちは、無事解放されたその陰には多くの人の努力と血税が費やされた事を自覚し、NGOのプライドにかけても、今後責任ある行動を心がけ欲しいと思います。

また、「テロに屈しない」ということも、1970年代後半以降のサミットでたびたび宣言・声明がだされているとおり、国際社会の一員としての国家の重要な責務であります。
世論調査の結果、今回の政府の対応について7割が「評価」したことは注目に値します。

DSC_6134.jpg 「自己責任」と「リスク自己負担」(2004年4月16日)


イラクで邦人3人を誘拐した「イスラム戦士軍団(サラヤ・アルムジャヒディン)」は、祖国解放の革命や聖戦の志士ではなく、卑劣な犯罪者です。
イラク国民への人道支援と国際貢献という、政府の自衛隊派遣の大方針をこの事件で変更し、自衛隊を撤退させるとすれば、テロリストの脅しに屈したことになり、日本の国際的名誉は失われることでしょう。

あさま山荘事件のときのように機動隊が突入したり、自衛隊の力で人質を救出するわけにはいきません。
ビデオテープが届けられたアルジャジーラ対して金銭を払ってでも、人質たちの居所を突き止めるべきであり、米特殊部隊の協力を得てでも、救出の努力をすべきです。

国際世論は今回の誘拐に批判的です。
国際協力を得て犯人を地球の果てまで追いつめ、必ず逮捕しなくてはなりません。

また、国際ボランティアに行く者には「自己責任」と「リスク自己負担」の原則を自覚して欲しいと思います。

私はJIRAC(国際救援行動委員会)理事長として、還暦から古稀までの10年間で、850人の若者を率いてクルド難民やシベリア窮民、カンボジアの孤児救援などのボランティア活動を行ってきましたが、彼らには必ず 自己責任の原則で規律に従って行動する旨の誓約書を書かせ、親の承諾を得させてから現地に引率し、一人のけが人も出さずに使命を果たしました。
海外ボランティアとは、そういう「命がけ」のものなのです。

DSC_6214.jpg NGOの任務とその限界(2004年4月14日)


「NGO」とは、「非政府組織」(ノン・ガバメンタル・オーガニゼーション)のことであり、「人類愛」で「弱き者を助ける」民間人による人道支援活動です。NGOの精神は、「政府ができないこと」を志願して行う「自己責任」の行動で、リスクは本人負担が原則です。「政府に頼らない」と同時に「ひと(政府)に迷惑をかけない」というのがNGOの誇りであり、「反政府組織」(ノウ・ガバメント・オーガニゼーション)とは、根本的に異なるものです。

この尊いNGO活動には「できること」と「できないこと」があるのです。

1991年湾岸戦争、そしてカンボジアの紛争では、自衛隊を派遣できないから民間人のNGOが行き、そのあとで文民警察、最後にPKOとして自衛隊が現地に赴きました。しかし、NGOの中田厚仁氏が死亡、次いで文民警察官の高田晴行警視が殉職しました。だから、自衛隊施設大隊600名がタケオに派遣されたのです。「危険だから自衛隊は行かない」というのは、世界の非常識なのです。

私も、自ら理事長をつとめるNGO団体「JIRAC(日本国際救援行動委員会)」の隊員を率いてクルド難民やシベリア窮民、カンボジアの孤児救援、小学校建設などのボランティアに行き、自衛隊がカンボジアに派遣される前の1991年から計14回、のべ850人の隊員と現地で活動しました。しかしその際、隊員には必ず「自己責任の原則」で規律に従って行動する旨の誓約書を書かせ、未成年には親の承諾を得させてから現地に引率し、一人のけが人も出さずに使命を果たしました。海外ボランティアとは、そういう「命がけ」のものでもあるのです。

イラクでも昨年、奥克彦大使・井ノ上正盛一等書記官が殺害されました。民間人や赤十字、外交官では危ないという理由で、「イラク特措法」により人道支援、復興支援の目的に限って、訓練を積んだ3自衛隊約800名を派遣したのです。

1年前の2003年3月20日、米軍のバグダッド攻撃開始の少し前から、外務省は邦人に退避勧告を行いましたが、20名ほどの若者NGOが「人間の楯」となってバグダッドのライフライン施設を守ると現地に残りました。幸い最後は避難して犠牲者はでませんでしたが、彼らの「命がけの志」がイラクを守ったのでは、決してありません。「人楯」ではイラク国民を救うことはできないのです。

このような「命を賭して平和を守る」という殉教者的行動は、朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代に一世を風靡した「平和論」、「非武装中立論」論争にさかのぼります。
「死を賭しても平和を守る。大砲の筒先に立ちはだかっても戦争を止めさせる」と、当時の進歩的文化人(中野好夫氏、清水幾多郎氏、広中俊雄氏、堀田善衛氏ら)は主張しました。対して竹山道雄東大教授は「死を賭して戦争を防ぐ行動をとる人は少ない。かりに死を賭して平和を守ろうとしても、死のみが無駄に賭されて平和は守れない」と説きました。福田恒存氏、関嘉彦氏、村松剛氏も同様の主張をしました。彼らの主張が正しかったことは、その後の歴史が証明しています。

弱い人たち、困っている人たちを助けるという気持ちは尊いけれど、独善に陥って人騒がせ、人に迷惑をかけるのは、決して好ましくありません。

卑近な例ですが、昭和50年代はじめ、三重県警本部長をつとめていたとき、悪天候の予報の中、みんなが控えている冬山登山を試みた冒険家がいました。遭難すると大迷惑であり、冒険家どころか税金をかけて捜索する無謀なアルピニストでしかありません。人騒がせのNGOはそれに等しいのです。

「自己責任」がNGOの心意気であり、まして彼らが国の政策変更を狙う卑劣なテロリストに利用され、それによって世論が揺らぐなど、論外です。

不幸にも事件が起きてしまった現在、政府には人質になった3人の無事救出に全力を尽くすことを期待しますが、同時に日本国民は今回の事件の教訓として、自己責任の大原則と良識としてのNGOの限界(できることとできないこと)を見分けられるよう、学ばなくてはなりません。

外務省の度重なる勧告を無視してなおイラクにとどまっているNGOの人たちには、すみやかに他の国へ避難して、この人質事件を再発させないよう協力してほしいのです。


DSC_6217.jpg サマワの陸自先遣隊(2004年2月2日)


サマワの陸自先遣隊は視察や道路工事にとりかかり、学校・コミュニティ事業の実施による地元民の雇用にも前向きに取り組むほか、地元部族長との友好関係を積極的に築き上げています。佐藤正久隊長は、早くもサマワでは「おしん」以上の知名度で、人気を得ています。

派遣自衛隊員の安全確保のためにも、これらの施策と先遣隊の活躍は非常に評価すべきですが、他方、国会では、イラク派遣承認をめぐり、議論が紛糾しています。「危険であるという前提で」議論し、「身を守るための武器使用の必要性」についても、きちんと議論を尽くして承認を得た上で、本隊を派遣する必要があります。

派遣自衛隊の地元、旭川や名寄では、<無事に帰ってきて欲しい>との気持ちを込めた「黄色いハンカチ運動」が盛り上がりを見せています。この運動を全国に広めるために、党派を超えた議員連盟もたちあがりました。

「黄色」はイギリスでは身を守る色、そのほかにも暖かさ、希望、愛と信頼と尊敬を表すなどさまざまな意味があり、アメリカでは「愛する人の戦場での無事を祈り、帰還を願うシンボル」となりました。

安全確保に万全の対策を講じるのはもちろんですが、いったん派遣が決まったならば、是非論を超えて「黄色いハンカチ」の気持ちで、国民全員が隊員の無事を願いたいと思います。また、派遣隊員には胸を張って任務を果たしてもらいたいと思います

DSC_6224.jpg 2004年の危機管理問題の展望(2004年1月5日)

2003年は「治安」「防衛」「外交」に政治や国民の関心が高まった年でした。 本年はイラクへの自衛隊派遣問題が、国民の大きな関心を呼んでいます。現地のイラクでは、自衛隊の<復興協力>のためのサマワ入りを86%の周辺住民が歓迎し、彼らへの攻撃もないと思っている人が73.4%にのぼります。

しかしながら、万が一のテロ攻撃には十分に備えておくべきで、基本計画で定められている「武器」の範囲で極力重武装をし、その使用については現場指揮官判断に委ねることが必要です。

北朝鮮問題も「軟化」か「揺さぶり」かわからない状態で、拉致問題も核問題も進展していません。
翻弄されることなく、今後も断固とした交渉の継続が必要です。

治安回復も大きな課題です。国は治安関係の国家公務員を1339人増員し、刑務所等の収容定員も5000人増やすよう整備をします。また、地方警察官も3150人増員し「空き交番」解消に向け、警察官を集中投入します。交番相談員による支援強化や、テレビ電話導入など諸策を講じることにも期待をしたいと思います。

世界では、ロシア、アメリカの大統領選、台湾総統選、インドネシアの大統領選などが行われます。
世界情勢の動きにも注目してまいりたいと思います。

国民保護法の制定も急がれる本年ですが、この国の「危機管理システム」確立のために、目をそらさず提言してまいりたいと思います。

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